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ハリーポッターの映画だけ見せてくれなかった両親

2019年9月は大変忙しい一か月でした。
とくに用事が詰まっていたというよりは、初めてなことが多かったため要領を得ず疲れたといったところでしょうか。
静岡での数学基礎論サマースクール
その最中での留学のための書類作成
金沢での日本数学会での発表
そして大人向け数学講座の打ち合わせ

突然舞い込んだ学生プレゼン

徐々に楽しくなっていく毎週の数学基礎論勉強会などなど。
なんとかこれらを終え、日々書き溜めている記事の1つでも久しぶりに推敲しようと思いました。

 

よく数学や、私の啓蒙活動に関するものが多かったですが、今回は肩の力を抜いて思い出話でも書いてみます。

 

小学生のころ、ハリーポッターブーム真っただ中でした。
自分が読みだしたのは3巻が発売され映画が放映されたあたりです。
私は小説などをよく読むような少年ではなかったです。
図書館にあるかいけつゾロリ、そしてはだしのゲン、そして○○のひみつシリーズを好んで読んでいました。
そんな自分も他の少年少女たちよろしくハリーポッターにハマりました。

 

両親は世間の教育ママのようなタイプではなかったですが、教育には何かしらの思い入れがあったようです。
なのでハリーポッターシリーズも子供向けだと軽く見つつも、一巻をどんな漫画よりも真剣に読む私を見てこのシリーズだけは快く買ってくれました。
どこかの記事で書いたかもしれませんが、両親は私が中学2年くらいまでは2人で朝から晩までイタリア料理屋を経営しており、私は小学1年からかぎっ子でした。
幸い自宅とお店の距離は近く、晩御飯は自宅ではなくお店の方で食べてました。
大体来客のピークが過ぎたあたり、20時くらいに自宅に電話がかかり、そこからお店に向かって、接客の合間に晩御飯を作ってもらい、お店の背の高さがあっていないカウンターの隅っこで食べて、帰って寝る、といった生活でした。
ただ完璧にお客さんの動向を読めるわけでもなく、お店に到着したものの、急に忙しくなって、ご飯が作れなくなり長めに待つこともよくありました。
よく空腹時にイライラする人がいるようですが、自分はこの時に我慢することを覚えたからか、あまりそういうことはありません。
しかしただ待っているのもつまらないし、お店には私が関心を持つものもなかった(テレビはあったけど営業中は付けない方針)ですから、家から何か持っていくことになります。
ただあまりものを広げるわけにもいかないですし、当時はまだ携帯ゲーム機はバックライトがなかったので少し暗めの店内でのプレイに向かず、
嫌々宿題をやることも多かったです。


そんな中、親にも特に責められず、そしていつでもどこでも中断・再開できる読書にハマりました。
当時お気に入りにジージャンがあって、これは内ポケットと呼ぶには小さすぎるほど大きなポケットが付いていました。
なんとハリーポッターの本が1冊はすっぽり入ります。
当時はまだ文庫版のような小さなものはなかったです。
そしてそんなポケットが左右に2つ付いています。
なので4巻以降の上下巻タイプでも、特に持ち物を持たず持ち運ぶことができました。
なので電話が鳴ったら2冊をポケットに忍ばせ、鍵だけもってお店に向かいました。
学校の図書館にも置かれましたが、私は家から自分のものを持って行って給食の準備時間という些細な時間でも読んでいたのを覚えています。

 

とくにお小遣いが多かったわけでもなかったので、映画のDVDやハリーポッターを題材にしたTVゲームを買うことはなかったです。
ただ中学校になって電車通学になり行動範囲も大きくなったからか、他の子よりも多額のお小遣いをもらうことになり、
日本橋のお店を歩き回って安いDVDやゲームを掘り当てるのを楽しみの一つにしていました。
今は見る影もありませんが、あの頃のオタク街は非常に刺激的な場所でした。
高校生の頃は怪しいビルの8階にあるカードショップに毎日にように通ってました。
そんな頃には、飲めもしないコーヒーを入れて、ハリーポッターのDVDを見ながら、無駄に徹夜したことも多々あります。

 

しかしそういった原作以外のハリーポッターに関するものは両親に買ってもらうことはありませんでした。
ゲームはまだしも映画を見に行くお金や、DVDを買うお金ももらえることはなかったです。
もちろん本を買ってもらえるだけありがたいとは思っています。
両親に「小説はいいのに映画はなぜダメなのか」と問い詰めたことがあります。
そして変な話、コナンは映画代くれたんですよね。
つまりハリーポッターはとくに私に映画を見せたくなかったようです。

 

ではなぜハリーポッターだけダメなのか、それは私の頭の中にある物語・登場人物のイメージが壊れるからということでした。

 

物語を読んだ人は分かると思いますが、その物語に引き込まれたとき、登場人物の声が聞こえ、物語の状況が文章を通じて頭の中に浮かび上がります。
それはとくに外部から追加の情報がない間は自分の中に固定されます。
しかしひとたび映画など原作に近い再現が行われている創作物を見てしまえば、頭の中にあったイメージはそれに上書きされてしまいます。
映画を見る前、小学生の自分がどのように登場人物たちを、作中に現れる建物を、そして魔法生物をどのように想像していたのかはもう思い出すことはできません。

 

今でも少し時間が空いたとき、つい本棚にあるハリーポッターを読んでしまうことがありますが、
このとき脳内で再生されるのは、映画の中にあった登場人物で、建物で、生物でです。

 

両親は自分で考えることに重きをおいていたのでしょう。
自分で自分を楽しませることといってもいいかもしれません。
よくテーマパークを私の前で酷評することが多く(当時USJができたばかりでした)、保育園時代を除きそういった娯楽施設には連れて行ってくれたことがなかったです。
その理由は「楽しましてくれると分かっている場所に行き、向こうが望むように楽しむ・泣くことの何が良いことなのか」だったと思います。
子供としては単に興味があって見たいだけなのに、そういう答えが返ってきては、上手に反論することができませんでした。
ただ、彼らなりに良いテーマパークもあったようで、下水道記念館とか関西圏にある教育寄りの施設にはよく連れて行ってくれました。
それはそれで楽しかったのを覚えています。
4年生くらいに毎週日記を提出する習慣が担任にあって、そのネタ作りにも助かりました。

 

今でも時々、私の中でハリーポッター観を育てることの大事さは、他にどのように説明できるのか考えてしまいます。
確かに一見良い意見に思います。
でもそのような読み方をどのようにして両親は身に着け、その考えに至ったのでしょうか。
昔から新しい経済活動を始めて、それで初収入を得たとき必ず両親、そしてその活動の協力者へご飯をご馳走するようにしています。
ついでに普段行こうとは思わないような高いお店を行くのを楽しみにしています。
最初に書いた数学講座が終われば今までにない金額を稼ぐことができそうです。
その後改めて両親に聞いてみてもいいかもしれません。

とくにまとまりがなかったけど、おしまい。